川の名前

エルスター川で思い出したどうでもいい話。
このエルスター川(die Elster)はエルベ川(die Elbe)の支流ですね。一昨年の夏頃でしたか、エルベ川流域の水害が伝えられましたね。第二次世界大戦末期に西から来た米軍と東から来たソ連軍が邂逅したのはエルベ河畔のトルガウでした。ドレスデンのことを「エルベのフィレンツェ Elb-Florenz」なんて呼んだりもしますね。上流に行くとモルダウ川(die Moldau チェコ名はヴルタヴァ Vltava)があります。
ドイツ東部やポーランドの川というと、他にもオーデル川(die Oder オーダー川)とナイセ川(die Neisse・・・ssはエスツェット)、ヴァイクセル川(die Weichsel)、メーメル川(die Memel)なんてのが浮かんできます。後二者は現在ではポーランド領内ですが。
オーデル川のポーランド名はオドラ(Odra)川、ナイセ川はニサ(Nysa ニュサ又はヌィサとも読む)川。第二次世界大戦後にドイツとポーランドの国境をとして(暫定的に?)定められたのがオーデル=ナイセ線ですね。これは現在に至るまでドイツ・ポーランド間の問題になっているようないないような。日本のボード・シミュレーション・ウォーゲームの世界ではそれなりに有名な方が末期のドイツ国内戦のゲームを二つ作ってるんですが、その小さいほう*1で「フランクフルト・アン・デア・オーデル」(Frankfurt an der Oder オーデル河畔のフランクフルト)を「フランクフルト・アム・オーデル」って書いてるんですね。「フランクフルト・アム・マイン」(マイン河畔のフランクフルト)につられたんだと思うんですが、マイン川(der Main)は男性なんで「an dem Main = am Main」、オーデル川は女性なんで「an der Oder」としないとおかしい。なんてことはドイツ語習うと一番最初にやるんですけどね。この有名な方は英語ドイツ語を含めた様々な資料を駆使してゲームを作るという評判なんですが、これだとちゃんと資料を読んでるのかどうか怪しく思えてしまいます。些細なことなんですけどね。
ヴァイクセル川はポーランド名でヴィスワ(Wisla)川。ポーランド南部からアウシュヴィッツポーランド名でオシフィエンチム)、クラクフワルシャワを通りダンツィヒポーランド名でグダニスク又はグダンスク)の東方でバルト海に注ぐ川です。ドイツ騎士団の昔から内陸への水路として重要であったわけです。思いつくのはヴァイクセル軍集団、ハインリヒ・ヒムラー冬至作戦、マントイフェル等々。映画「戦場のピアニスト」で主人公がワルシャワのゲットーの外に逃れてから後、1943年のゲットー内での蜂起、1944年のワルシャワ蜂起が起こります。ワルシャワ蜂起の時にソ連軍は既にヴァイクセル川の対岸に達していながら傍観していて、蜂起したワルシャワ市民を見殺しにする結果になっています。補給のための停止だったとか、蜂起がロンドン亡命政府の主導する国内軍によって始められたために正に見殺しにしたのだとか、様々な見方があるようです。
ヴィスワ川の支流のブク川(ブーク川)は1939年のドイツとソ連によるポーランド分割占領の際の境界になっています。これを1795年の第3次ポーランド分割に次ぐ第4次ポーランド分割と呼ぶことがあります*2。戦後のソ連ポーランドの国境確定でもこの線が用いられました。ブレストやリヴォフ、テルノポリの辺りは第二次世界大戦前はポーランド領だったわけです*3
メーメル川は昔のオストプロイセンの東の端*4ドイツ国歌の今は歌われない1番で
ムーズ川からメーメル川まで
エッチュ川からベルト海峡まで
Von der Maas bis an die Memel
Von der Etsch bis an den Belt
とあるメーメル川。1807年の「ティルジットの和約」のティルジットはメーメル河畔にあります。それから5年後、1812年ナポレオン・ボナパルトのロシア侵攻の進発点となったニーメン川(ニエメン川又はネマン川リトアニア名でネムナス川)はこのメーメル川です。

*1:体裁的には雑誌に付属しているゲームで、キュストリンの戦闘なんかを扱ったゲーム。

*2:1815年のウィーン会議によるロシア支配下での王国再建を第4次分割として、1939年の分割を第5次ポーランド分割と呼んでいる例をどこかで見ましたが、これは一般的なんでしょうか?

*3:そんなこともあってポーランドとロシアの関係は今でも微妙なんですね。他にもカティンの森事件とか。カティンの森に関しては、1990年にソ連ゴルバチョフ大統領がソ連による犯行だと認めて謝罪するまで、ソ連は一貫してドイツの仕業だと主張していたわけです。

*4:もっとも、メーメル川(ニーメン川)の北東岸も「メーメル」地方としてプロイセン領でした。このメーメル地方は第一次世界大戦後にベルサイユ条約でフランスの委任統治領となり、1924年にはリトアニア領に組み入れられました。その後、1939年にドイツに併合、第二次世界大戦後はソ連領、1991年のリトアニア独立後に再びリトアニア領となっています。