ケンペとグルダ

Rudolf Kempe/Muenchner Philharmoniker, mit Friedrich Gulda (P)

  • WAGNER, Vorspiel zu Die Meistersinger von Nuernberg
  • MOZART, Klavierkonzert B-dur K.595
  • DVORAK, Sinfonie Nr.8 G-dur Op.88

Scribendum SC 004 (Aufnahme: 29/11/1972 Duesseldorf)


クレジットによれば、1972年11月29日、デュッセルドルフでの「ヒルダ・ハイネマン財団記念コンサート」のライブ録音ということである*1。たぶんアナログ時代から出回っている録音なのではないかと思うが、詳しいことは調べていない。
曲目は私の好きな曲ばかり。嬉しい組合せだ。録音も良好。さすがに上の方への抜けはよくないが、不満はない。演奏はライブにもかかわらず精度が高くさほど満足・・・いや、好き嫌いのレベルでいうと、困ったことに私はあまり好きな演奏ではない。通勤途中に本を読みながら聴き流すのに支障はない。しかし、じっくり聴くと、うーーーむ、なのだ。これは、誰の演奏に慣れてしまっているか、という刷り込みの問題でもある。
マイスタージンガー前奏曲は遅すぎないテンポでベタっと重くならず、陰翳もあって素晴らしいと思う。カペルマイスターの技みたいなのも生きている。問題はモーツァルトのピアノ協奏曲第27番(K.595)で、これがどうもいけない。グルダが巧みな芸を見せてくれるし、ケンペもよくサポートしている。でもね、私、この曲はブリテンカーゾンの組合せ*2で長く聴いてしまっていて、あっさりサッパリでかつ奥行きがあり、縦の線の揃った演奏、何と言うか、力が抜けているけど腑抜けではない引き込まれるような清らかな楷書体のような演奏、これが刷り込まれているらしい。グルダは決してこってりではないのだが、装飾音の織り込み方やカデンツァの部分がクドく思えてしまう。ケンペの指揮もだらしなくはないのだが、何となく締りがないように思えてしまう*3
むしろオケだけ取り出せばしっとりと滋味に溢れた演奏、メランコリックな気分を基調にした演奏と言えるかもしれない。でもグルダのピアノは必ずしもそれに融和せず、塀の上で踊るかのような落ち着きの悪さを示している。・・・と感じてしまうのだ。所々といった程度ではあるのだが。グルダの演奏がふざけているというわけではない。また「K.595はモーツァルト白鳥の歌の一つだから、死の影を感じさせるような、彼岸を感じさせるような演奏でなければならない」といった変なことを言うつもりは毛頭ない。ただ、巷間言われるところの「透明感」だけは失って欲しくない。ここでのグルダのピアノには、それが欠けているように思えてならない。
演奏は立派で、悪い演奏ではない。いや、良い演奏なのだ。それはわかる。でも好きにはなれない演奏というのがどうしても存在する。これは私という人間にとって不幸なことだと思う。まあ、好悪の評価は、時が過ぎると変わる可能性があるものだ。だからこのCDを手放したりするつもりはない。
(続く)

*1:ヒルダ・ハイネマンは当時のグスタフ・ハイネマン大統領(ドイツ連邦共和国)の夫人。

*2:K.466とカップリングのCDは無人島CDの内の一枚である

*3:実のところ、ケンペの特に晩年のライブについてはこのように感じることが少なくない。こんなことを書くとケンペのファンに怒られるだろう。