情緒と論理

毎日新聞配信のYahoo!ニュース
「<青学高等部>沖縄・ひめゆり学徒隊の不適切な入試問題」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050610-00000033-mai-soci
琉球新報配信のYahoo!ニュース
「青学高入試問題に元ひめゆり学徒「許せない」」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050611-00000001-ryu-oki
同じく
「「心を傷つけた」 青学高がHPでおわび ひめゆり「退屈」問題」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050612-00000002-ryu-oki


上の毎日新聞の記事によると

同校によると、英文は生徒が書いたものではなく、同校の教諭が試験用に作成した。沖縄県で生徒は、防空壕(ごう)に入った後、ひめゆり学徒隊の女性から体験談を聞いて「退屈で飽きた。彼女が話せば話すほど、私は防空壕で受けた強い印象を失った」と感じ、「(女性が)いろんな場所で証言をしてきて、話し上手になっていた」との感想を書いたという内容になっていた。

ということだそうです。

考えていてよく判らないのは:

  • こうした問題に関しては否定的な感想を持つこと自体が不適切であり許されないのか?表現することが許されないのか?入試問題とすることが許されないのか?
  • この感想文が入試問題用に教諭が作成したものではなく、実際に誰かの感想だったとしたら、不適切か否かという問題の捉え方は変わってくるのか?
  • 英語の問題ではなく小論文か何かの題材としてだと適否の判断は変わってくるのか?

どの点がどう不適切なのか、情緒的にではなくちゃんと説明してほしいのですが・・・
一定の言論を不適切と断じたり存在しないかのように扱うこと、これを正当化するには適切な論理が必要であり*1、論理を無視するならそれは所謂ファッショでしかありません。

*1:論理的一貫性を貫くのが困難な場合も出てきますが、それでもそこで説明を放棄するのでは正当性が疑われます。例えば、ドイツの「闘う民主主義」(あるいは「戦う民主主義」)は民主主義という枠内では論理的に説明できるかどうか微妙かもしれませんが、より高次のレベルの議論として民主主義の存立基盤の維持という観点からすれば論理的に正当化しうるということになるでしょう。