クレンペラーまだまだ

 オットー・クレンペラーの1968年ウィーン・ライブ、まだまだ全部じっくりは聴けていません。これだけで1ヶ月は楽しめそうなのに、他のCDに浮気しながら聴いてますのでなかなか進みません。
 さて、先日触れた「ドン・ファン」と一緒に入っているヴァーグナーは3曲です。


 「ジークフリート牧歌」は各声部一人の奏者による演奏で、室内楽の響きを堪能できます。何箇所かでホルンが崩れるのが実に惜しい。


 「トリスタンとイゾルデ前奏曲」はじっくりと歌い上げるものの全体としては普通な感じ。情熱的というわけではなく、さりとて醒めきっているわけでもない。寂寥感を滲ませながらも色彩感が豊かなのはウィーンフィルならではなのかな。録音のせいかクレンペラーの意図的な音響設計なのかはわかりませんが、内声部というか木管がくっきりはっきり聞こえるのは、弦楽部に現れるトリスタンとイゾルデ2人の情熱に対して、人間の素朴な良心と葛藤、孤独が示されているようで(私の手前勝手な解釈です)非常に好印象でした。


 「ニュルンベルクのマイスタージンガー第一幕への前奏曲」は遅めのテンポでたっぷりと聴かせる演奏。重々しく単色で塗りつぶされてしまうのではなく、対位法的な動きの細部まで細密画のように描かれます。といって例えばチェリビダッケのように音楽の進行が完全に止まってしまう(彼の場合には「意図的に止めてしまう」というのが正しいか)わけではありません。さほど遅さを感じさせずに前に進んで行く自然な流れがあるのは素晴らしいと思います。
 とはいえ、好き嫌いでいうと、私はこういう(マイスタージンガー前奏曲のような)演奏はあまり好きではありません。ゆったりとしたテンポから得られる精密さや立体感、独特の雰囲気は貴重です。が、以前にも書いたように失われるものも大きい。交響曲を含む器楽曲ではマイナス面は少ないかもしれませんし、例えばベートーヴェンのミサ・ソレムニスなどのような器楽曲的な声楽曲でも同様ですが、オペラにおいては得られるものより失われるものが大きくないかと。あるいは表題音楽なんかの場合にも。マイスタージンガー前奏曲は、わたくし的には純粋な器楽曲ではなくオペラ/楽劇の前奏曲として演奏してほしい曲です。
 さらに言えば、こうした「遅い演奏」で気になるのは、テンポのブレです。多くの「遅い演奏」は冒頭の「マイスタージンガーの動機」の部分とそれに続く「情熱の動機」の部分は普通のテンポで、「マイスタージンガーの行進の動機」の部分に入るところでガクッとテンポを落とす感じなのです。で、以降はこの部分のテンポを基本にゆったり進んでいきます。まあ、堂々とした行進ですから遅めのテンポで雄大にというのは解らなくはありません。が、オペラの前奏曲としてみた場合には(例えば行進の動機が最も明確に現れる第3幕第5場を思い浮かべて聴くならば)オペラの内容を反映していないように感じますし、純粋器楽曲としてみたとしても曲全体の見通しを悪くしていないでしょうか。こういう演奏が「ずっしりと安定した演奏」なんて評されることがあると、わたくし的には、ですが、違和感をおぼえてしまいます。
 ああ、でもクレンペラーのテンポで奏でられる「マイスタージンガーの芸術の動機」の弦の優美な響きは、遅い速い云々を超越して、ただひたすらに感動的です・・・


 チェリビダッケ的に考えるならば、テンポなどは瑣末な問題で、あるいはテンポという問題ではなく、時間の流れの中に音楽を置くときの哲学が表れているに過ぎないというのかもしれません。でもねえ、それを一般化して押し付けられると困ってしまうのですよ