H・Mと不思議なパイプ

 新しく本を読む気力は戻ってきていないので、カーター・ディクスンの「九人と死で十人だ」を再読。
 九人と死で十人だ 世界探偵小説全集(26)
 以下、小説の筋とは全く関係のないパイプスモーキングなお話を。


 読んでて気がついたのですが、この中に不思議なパイプが登場します。ヘンリー・メリヴェール卿(H・M)が持っている黒いパイプ。この国書刊行会の和訳では165頁。第二の殺人?自殺?が発生した直後、船長がH・Mに探偵役を引き受けてくれるように頼む場面(場面A)。

船室の閉じたドアにけだるげに巨体を寄りかからせていたH・Mは、レインコートのポケットから黒いパイプを取り出した。火皿には針を突っ込む隙もないほど葉がぎゅうぎゅうに詰めてある。彼はパイプを口の端にくわえた。朝食で腐った卵の匂いをかいだときのようないつもの苦々しげな表情はなかった。彼はパイプの吸い口をしゃぶりながら、眼鏡の奥で細い目を左右にせわしなく動かした。[駒月雅子訳・・・以下同じ]

 この後すぐにH・M達は自殺した?と思われるフランス人大尉の部屋の検分にとりかかります。この間、H・Mがパイプに火を入れたという記述はありません。ところが173頁にくると突然こういう記述が出てきます(場面B)。

さっきから長らく空のパイプを吸っていたH・Mは、ここでようやく防水布の小袋に入っている葉を火皿に詰めた。それからレインコートの大きな裾を持ち上げ、アメリカ製の台所用マッチをズボンの尻当てで擦った。パイプに火がつくと、彼はうまそうにひと吸いして寝台によじのぼり、回復期の病人のように高く積み上げた枕にもたれた。喫煙が健康によくないのは言うまでもないが、彼はうっとりとした顔で満足げに煙を吐き出した。

 場面Aからこの場面Bまで時間にして長くても20〜30分。記述はH・Mの行動を逐一追いかけています。場面Aで「火皿には針を突っ込む隙もないほど葉がぎゅうぎゅうに詰めて」あったはずの、その葉は場面Bではどこに行ってしまったのでしょうか?
 ありうる解釈は・・・

  1. 場面Aから場面Bの間で喫いきってしまった。
  2. 作者の記述ミス。
  3. 翻訳のミス。

1の解釈は難しいですね。小さなパイプなら30分ほどで喫えるかもしれませんが・・・

  • 場面Bで既に「長らく空のパイプを」ということは、この10分以上前には空になっていたと見るのが妥当。とすると、場面Aで火を着けていたとしても、10〜20分で喫いきらなければならない。これは無理なのでは?
  • 場面Bでは火を着けるのをじっくりと描写しているのに、場面Aから場面Bの間には火を着けたという記述が全く出てこない。
  • 仮に火を着けていて喫いきっていたとしても灰をどうしたのか。

ということで1は却下。3はオリジナルを当たってみないと確かめられません。もし翻訳の間違いだとするなら場面Aの部分でしょう。
 翻訳ミスでもないということになれば、まあ作者自身のミスということですね。映画やテレビだとよくありますよね。カット割りのところで髪の毛の長さが違っちゃったり、タバコを持つ手が逆になっちゃったり。映画「ローマの休日」のスペイン広場(スペイン階段)のところの時計の針なんかも。


 ちなみにこのパイプ、178頁でポケットにしまわれて、以降この小説の中には出てきません。エピローグではH・Mは葉巻を喫っています。「黒いパイプ」というだけで大きさも形もわかりませんが、パイプスモーカーにとっては気になるパイプです。