ガリポリ再び

 第一次世界大戦で枢軸側にたって参戦したオスマン・トルコは、ダーダネルス(ヘレスポント)海峡を封鎖。ロシアは黒海からの海上輸送路を失い、苦境に陥る。英仏はロシアからの要請を受け、エーゲ海側からダーダネルス海峡を突破しイスタンブールコンスタンチノープル)を圧迫することで、トルコを戦線から離脱せしめ、ロシアを救い(東部戦線の再築も意味する)、バルカン半島及び中近東の情勢を安定させることができる、その上で兵力を西部戦線に集中してドイツを打ち破ることができる、と考え、最初は海軍による突破作戦を行う。それが困難とみると、ダーダネルス海峡北西岸のガリポリ半島を陸軍力で制圧して突破を可能にすることを企図して、1915年4月、半島への上陸作戦を敢行する。というお話。
 準備不足、機密保持の杜撰さ、ムスタファ・ケマル(後のアタチュルク)の活躍も含めた様々な要因により、協商側は多数の死傷者を出して敗退し、作戦を主導した(と一般に考えられていた)当時の海相ウィンストン・チャーチルは一時的に失脚します。実は・・・

  • 海軍単独での突破はあと一押しで可能だった(そしてチャーチルはそれを主張した)のに、現地の指揮官ド=ロベック提督や本国の軍令部長フィシャー提督の反対により実現しなかった。
  • 陸上作戦についても、各上陸地点間の連携がとれていれば突破のチャンスはあったが、情勢判断の誤り(特にスブラ湾への二次上陸の際のフレデリック・ストップフォード中将に顕著)からそれを逃している。
  • 作戦全体に対して独裁的な影響力を及ぼしたのは、チャーチルではなく陸相キッチナー元帥だった。

といったところが、アラン・ムーアヘッドの「ガリポリ」の大まかなポイントでしょうか。戦後に判明したトルコ側の内部事情に依拠した、あとづけの議論のような気もしますが。一応は、そういう内部事情は注意深く観察すれば判ったはずだ、あるいはもし内部事情を把握しえなかったとしても戦略的見地からは損害を被っても「あと一押し」を実行するという判断ができたはずだ、という議論を含んでいますけれど。


 上陸させられた兵隊さんは、狭い浜辺に押し込められて、トルコ軍の銃砲撃に曝されながら斜面を攻め上っていかなければなりません。どうにもならなくなったところで、西部戦線と同じような塹壕戦に陥ります。協商側上陸部隊の総指揮官サー・イアン・ハミルトンは、日露戦争に観戦武官として出かけて行ってるはずなのですが、そこで得た教訓は生かされたのでしょうか。いや、でも海上艦艇からの砲撃に支援された強行突破しか途はなかったのかな。
 オーストラリア・ニュージーランドの兵隊さんが初めて大きな戦争に参加して、非常に悲惨かつ困難な状況下で最大限の勇気を示したというのも話のポイントの一つです。1915年8月の二次上陸に呼応した突破作戦では、旅順の二百三高地に相当する、ダーダネルス海峡を見渡せる山の頂を一時的に奪取するんですな。ケマルの指揮するトルコ軍の無理矢理の反撃で奪還されてしまいますが。このやりとりが、作戦全体のクライマックス。
 一度ニュージーランドに旅行したことがありますが、街のいたるところにガリポリの戦いも含む第一次世界大戦の戦死者を記念する碑が置かれています。そんなことを思い出しました。
Gallipoli