H・Mと不思議なパイプ 解決編

 何故か元気に3日連続更新。


 ヘンリー・メリヴェール卿と不思議なパイプのお話。「解決編」と銘打つ元になる記事は一年以上前(id:makinohashira:20060226#p1)。カーター・ディクスン駒月雅子訳)「九人と死で十人だ」(国書刊行会・1999年)でのパイプをめぐる怪奇現象(笑)について考えたものでした。
 このたび、昔昔確か紀伊国屋Web初体験の折に嬉しがって購入し、買ったことすら忘れてダンボールの底に眠らせていたペーパーバック(International Polygonics版)*1が発掘されたので、問題の箇所を確認してみました。で、何がおかしいか判りました。


 和訳の165頁を再掲すると:

船室の閉じたドアにけだるげに巨体を寄りかからせていたH・Mは、レインコートのポケットから黒いパイプを取り出した。火皿には針を突っ込む隙もないほど葉がぎゅうぎゅうに詰めてある。彼はパイプを口の端にくわえた。朝食で腐った卵の匂いをかいだときのようないつもの苦々しげな表情はなかった。彼はパイプの吸い口をしゃぶりながら、眼鏡の奥で細い目を左右にせわしなく動かした。[駒月雅子訳]

というものです。ここで葉が詰まっているはずのパイプ、少し後の場面ではすっかり空になっているというのが、謎な部分。火をつけた形跡すらないのに。この165頁に対応する原文、すなわち上記ペーパーバックの99頁を引用すると:

H.M., a big somnolent bulk, had been leaning his back against the closed door of the cabin. From the pocket of his raincoat he took out a black pipe, so caked that there would be hardly room for lead-pencil to go into the bowl, and stuck it in one corner of his mouth. His usual expression of cynicism, as of one smelling a bad breakfast-egg, had deserted him. He sucked at the pipe-stem. His narrow eyes moved sideways behind the big spectacles.

もっとも、これが翻訳の元になった版と全く同じかどうかはわかりませんが、それは措くとして、問題はここ:

so caked that there would be hardly room for lead-pencil to go into the bowl

駒月雅子氏の翻訳は"caked"を「葉がぎゅうぎゅうに詰めてある」と訳していますが、パイプで「ケーキ」といえばむしろ、火皿の内側に堆積したカーボン・ケーキのことでしょう。だからこの部分は

火皿にはカーボンがぎっしりとくっついて、鉛筆を突っ込む余地もないほど(穴が)狭くなっている。

とすべきなのです*2。この時点では葉は詰められていない空のパイプなのです。そうすれば、翻訳173頁の「空のパイプ」という記述と矛盾無く繋がります。
 細かいですが誤訳の可能性大ですね。推理の筋道に影響を与えるような致命的な誤訳なんてのじゃありませんけど。パイプについて知らない人なら犯しても仕方のないミスでしょうね。
 まあ、上記のように訳したとしても今度は、そんなにカーボンの溜まったパイプに葉を詰められるのか、詰めて喫ったとしてボウルが割れないのか、といった別の問題は生じるのですが。

Nine and Death Makes Ten (Library of Crime Classics)

Nine and Death Makes Ten (Library of Crime Classics)

*1:同時に「プレーグ・コートの殺人」「赤後家の殺人」「孔雀の羽」なんかも買ってました。

*2:"cake"には動詞で「固める、厚く塗る、こびりつく」といった意味があります。