008ハイドン第104番

 諸井誠『交響曲名曲名盤100』を手がかりに交響曲を聴こう。
 ハイドンの最後8曲目は第104番。わかりやすく聴衆の気を惹こうというのではなく、真面目な真面目な曲です。『名曲名盤100』でも「動機労作的作曲技法」「循環構成」への言及があります。転調による展開が面白い第1楽章や、変奏曲的な三部形式の第2楽章もそうだけど、いくつもの主題が綿密に展開され再現される第4楽章は圧巻です。といって、形式的なだけの詰まらない曲では決してなく、一聴して親しみやすく、かつ聴き終えた後の充実感も半端ではありません。
 最近では、「のだめカンタービレ」の正月スペシャルのコンクールの場面にこの曲が出てきました。その場面では、「ハイドン交響曲は軽やかに演奏したんじゃ詰まらない演奏にしかならないから、巨匠風に重々しく演奏させるんだ」なんてことが言われまして・・・そんなのって逆に10年も前の考え方じゃないのかね?現在のハイドン演奏って復古的なアプローチを超えたところにあるんだと思い込んでたけど。って言っても、私自身は例えばサー・サイモン・ラトルなんかの「現在のハイドン演奏」にはテレビやレコード屋の試聴コーナーでチラッと接したことがあるだけで、真面目に聴いたことないんですけどね。


 さて、『名曲名盤100』では、コリン・デイヴィス/コンセルトヘボウ、マリナー、フォン・カラヤンウィーン・フィルヨッフムドラティザンデルリンク/シュターツカペレ・ドレスデン、ギュンター・ヘルビッヒ/ドレスデン・フィル、ビーチャムが挙げられています。ヨッフムドラティが新版総譜に忠実な手堅い演奏、マリナーやフォン・カラヤン、ヘルビッヒ辺りはそれを超えて新鮮という評価ですね。例えばビーチャム卿の浪漫主義的アプローチについては、ロビンス・ランドンの批判を引用しつつ、でもまあ多様な演奏が楽しめる中の「ハイドン演奏の名盤一里塚」として一度は聴いてみて、というふうに説明されています。この本のこういうところが大好きです。


 私の手持ちのCDは7枚:

  1. バルビローリ/ジョン・バルビローリ室内管弦楽団(1928年録音):エルガーの「序奏とアレグロ」、モーツァルトアイネ・クライネ・ナハトムジーク」他1928年から29年にかけて録音された数曲のアルバム
  2. ビーチャム/ロイヤル・フィル(EMI・1958-59年録音):第99番から第104番までの2枚組セット
  3. フォン・カラヤンウィーン・フィル(Decca・1959年録音):ベートーヴェン交響曲第7番とのカップリング
  4. マルケヴィッチ/ラムルー管弦楽団Philips・1959年録音):第103番及びベートーヴェン交響曲第1番とカップリング
  5. ヨッフムロンドン・フィル(DG・1971年録音):5枚組のロンドン交響曲群+α
  6. ホグウッド/アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック(オワゾリール・1983年録音):第94番・第101番とのカップリング
  7. ブリュッヘン/18世紀O(Philips・1990年録音):13枚組のセット

一番新しいので20年近く前のもの。「のだめ」にイチャモンつける資格はありませんな。一番古いサー・ジョンのものは、バルビローリ協会による復刻。さすがに録音も演奏も、常に聴いて楽しむというレベルのものではありません。


 昔から持っていて聴き慣れているのはホグウッドで、その軽薄ならざる軽快感を基準にしてしまうと、ビーチャム卿は甘過ぎ、ヨッフムは鈍すぎるように感じてしまいます。マルケヴィッチ盤は第103番でも触れたとおりの歯切れの良さ。
 私にとって微妙なのはフォン・カラヤン。50年前の演奏ながら、丁寧で適度な弾力感をもった新鮮さ。が、iPod miniに入れてSHUREで聴くと、その弾力感というか柔らかさが、例えば一部フレーズの末尾の処理を故意に「緩く」することや、フレーズの途中でも敢えて縦の線を不揃いにすることにより生み出されていることに気付いてしまいます。これは精密さの欠如ではなく、おそらくフォン・カラヤンの演奏上の工夫なのです。でも、曲によって、あるいは聴き方によっては、これが不潔でだらしなく聞こえてしまう瞬間も出てきます。それがフォン・カラヤンに対する評価の分かれ目であるように思えます。このウィーン・フィルとのハイドンでは十分許容範囲。でも例えば名盤の誉れ高いパリ管とのフランクの交響曲は、私としては許容範囲外になります。

Symphony 7 / Symphony 104

Symphony 7 / Symphony 104